伊勢街道を走り歩く際に知っておきたい豆知識

伊勢街道は、江戸時代にお伊勢参りでにぎわった、四日市市日永の追分から伊勢神宮(外宮・内宮)へ至る約18里(約70㎞)の街道です。

四日市市の日永の追分で分岐して、鈴鹿、津、松阪、斎宮を経て伊勢に至るルートで、多くの旅人が利用した幹線道路でした。

伊勢街道は、別名・参宮街道とも言われ、五街道(東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中)に続く脇往還(わきおうかん)として、五街道同様に宿駅などが整備されていました。

伊勢街道の重要用語

本陣・脇本陣

江戸時代の宿場に設置された大名や公家・幕府役人専用の高級宿泊施設の事で、江戸と国元を往復する大名行列の休泊に不可欠な存在で、宿場の名主や有力者が経営しました。

本陣は主に大名が宿泊し、脇本陣は本陣の予備施設として、また大名の家臣などが利用し、利用がない時は一般客が宿泊していました。

本陣には「門・玄関」の設置が予定されていましたが、規模や施設は旅籠などよりも格上でした。

旅籠・木札宿(はたご・きふだやど)

江戸時代の宿場町で、一般旅人を対象に朝食と夕食の2食を提供した宿泊施設の事を旅籠、自炊宿の事を木札宿と区別されました。

旅籠はもともと旅行用の馬の飼料(まぐさ)を入れる籠の事を言いましたが、次第に食事付きの宿屋の事を言うようになりました。大名など有力者が泊まる本陣・脇本陣と異なり、庶民や武士が主に利用しました。現在でも歴史ある温泉宿などで「旅籠」の名称が看板に使われるなど、近現代の旅館の原型となりました。

問屋場(といやば)

幕府公用の人馬継立の業務や、書状などを運ぶ飛脚の手配を行なっていた管理事務所の事。宿場の中心にあることが多く、宿場の最高責任者である「問屋」が執務しており、事務手続きや補佐係、帳簿付けを行う役人が詰めていました。宿場には必須の期間で、東海道などの主要街道では必ず設置されていました。場所は本陣の近くに位置する事が多かったようです。

類語には駅停(えきてい・宿駅の施設)、伝馬所(てんましょ・馬を管理する場所)、馬締(うまじま・馬を管理する場所)があります。

人馬継立(じんばつぎたて)

幕府の公用、大名、公家などのために、人足(にんそく)や馬を用意し、次の宿場まで送り出す事。

継飛脚(つぎびきゃく)

江戸時代に幕府公用の書状や品物を運ぶため、各宿場に人馬を常備し、宿場から宿場へリレー方式で昼夜を問わず運んだ高速の通信・輸送制度のことです。通常2人1組で行われました。江戸と京都・大阪間を最短約2日半から3日程度で結び、関所の夜間通行や増水時の渡河などの特権が与えられた最優先の幕府便でした。

飛脚

手紙や文書、軽い荷物を交代で走って運ぶ仕事をする人。江戸から京まで最速3日という記録もある。当初は公務に限られていたが、その後民営の飛脚問屋なども登場しました。

見附(みつけ)

江戸時代、城の城門や宿場の入り口に設置された見張り番所(番兵を置いた場所)の事を言います。宿場の出入り口の江戸側(江戸方)と京都側(上方)にひとつずつ設置され、宿場町の範囲を示す役割があります。見附には門戸が立つ木戸や棒鼻が設置されていました。

陣屋(じんや)

江戸時代に城を持たない主に1万~3万石の小大名(陣屋大名)や、幕府直轄領(天領)の代官所、郡代書として旗本、幕府の代官が、領地の統治や年貢徴収や裁判などの行政業務を行うために構えた屋敷・役所の事です。

堅固な天守や石垣は持たず、門、蔵、居館などで構成され、陣屋の周辺には城下町に準ずる小規模な市街地(陣屋町)が形成されました。陣屋は中世の頃には軍兵の駐屯する軍営を指しましたが、江戸時代に地方領主の居館・役所を指す用語となりました。

番所

交通の要衝や湊、造船所などに置かれた監視所で、通行人や荷物の検査や徴税を行なった、各地の城門や宿場、木戸などに置かれることもあった

高札場(こうさつば)

幕府や領主が決めた法度(法律・禁止事項)や掟書(決まり)が木の札(高札)に墨書きされていた、現在の掲示板の役割を果たしていました。宿場や追分、渡船場などの人が多く集まる場所に建てられ、全国にある「辻の札」の地名はその名残です。

別名として「札場(ふだ)」や「制札場(せいさつば)」とも呼ばれました。

一里塚

一里(約4km)ごとに土を盛って樹木を植えた塚で、旅人の旅程や馬や籠の料金の目安となり、旅人が一休みする場としても利用されました。

伊勢街道にも一里塚はありましたが、今は一部が面影を残すのみとなっています。

道標(どうひょう)

街道の追分や分岐点に立つ行き先や行程を示した道しるべで、ほとんどが庶民や商人からの寄贈によるもので、最初は木材が多かったですが、次第に自然石や切り石の道標になりました。

伊勢街道の宿場町

伊勢街道には主に四日市の日永の追分から始まり、神戸・白子・上野・津・松坂・小俣・山田の7つの宿場が江戸幕府によって公式に整備され、公用の伝馬(人馬継立)を担っていましたが、津と松阪宿の間にある雲出宿も非常に栄えていました。

神戸宿・本多氏の城下町として栄えた宿場

神戸藩本多家一万五千石の城下町として発展し、「宿屋千軒」と言われました。

今も神戸城跡や当時の街並みの名残が見られます。

本陣や問屋は十日市町にあり、旅籠は19軒、常磐町には14軒の旅籠が軒を連ね賑わいました。

白子宿・江戸への物資運送拠点として繁栄

紀州藩の代官所が置かれ「湊町」兼「宿場町」として栄えました。

伊勢木綿や紀州藩麹米を積み出す白子湊を控え、廻船問屋が軒を連ね、伊勢商人の流通拠点として繁盛し、伝統工芸の伊勢型紙の産地としても有名です。

上野宿・城下町から発展した宿場町

分部氏の城下町から発展した宿場で、町並みに「鉤の手(クランク状の道)が残っているのが特徴です。

1745年の記録によると、宿内家数313軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠13件、茶屋29件、酒屋5県で、御七里役所があり町内人口は1057人でした。

津宿・「日本三津」の一つに数えられた宿場町

藤堂高虎が海岸沿いの伊勢街道を城下に引き入れ、32万石の城下町として発展しました。

伊勢別街道との合流点(江戸橋)もあり、参拝客で最もにぎわった宿場の一つで、宿並には工商が軒を連ね繁花富饒の地で、「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」と詠われ大いに賑わいました。

雲出宿・雲出川の川渡しを控えた交通の要衝

雲津とも書かれました。雲出藩蒔田広定一万石の所領でしたが、1605年備中国浅尾藩に移封し廃藩となり、津藩領となりました。

雲出川の渡し舟を待つ旅人のための本陣や旅籠が並びました。

松阪宿・豪商を多く輩出した城下町

1584年に秀吉の命令で蒲生氏郷が松坂城主となり、海寄りの街道を城下に引き入れ、故地である近江の日野から商人を移住させ、城下町を発展させました。

徳川の世になると紀州藩領となり、松阪城二の丸に陣屋が置かれました。

三井家(三越)などの発祥地で、格子戸の商家が並ぶ景観が残っています。

小俣宿・神領の入り口にあたる宿場

離宮院が置かれ、宮川を渡る手前の「神領」の入り口にあたるとともに、鳥羽藩と紀州藩の相給地で、宿内には旅籠が軒を連ね賑わい、菅草履(すがぞうり)やうぐいす笛が名物でした。

旅人が宮川を渡る前に、身なりを整えた場所で、名物の「へんば餅」が今も親しまれています。

山田宿・伊勢神宮外宮の門前町として発展

外宮の門前町として栄え、お伊勢参りがブームになった際には、空前の賑わいを見せていました。

参拝客を宿泊・案内する拠点である御師の館が六百軒あり、宿並には御師の名を書き付けた用立所の看板が立ち並び、参宮者を出迎えました。

御師は太夫ともいい、全国の伊勢神宮信徒とつながりをもち、はるばる訪れた参宮者を接待し、参詣の面倒も見ました。

関連記事

  1. 三重県内の東海道を走り歩く際に知っておきたい豆知識