東海道は全長500km、400年前の旅路に想いを馳せて
東海道は律令時代に設けられた五畿七道の一つで、江戸時代からは徳川家康が整備した江戸(日本橋)と京都(三条大橋)を結ぶ約492㎞の幹線道路、幕府の公認道路として、五街道(東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中)の一つで、53の宿場(東海道五十三次)が置かれ、参勤交代や庶民の旅でにぎわいました。現在のJR東海道本線もこのルートに沿っています。
東海道が発展したのは、江戸時代以降で、以前は架橋技術がなかったため、京から東北へも距離が短く交通の便が良い中山道がメインでしたが、江戸時代架橋技術が進むとともに、平野部の城下町が発展し、参勤交代や交通・通信などの国家機能維持に利用されたため、主要道へと成長しました。
ただし川止めで日程が狂うため、中山道も併用された経緯もあります。
東海道の宿場の役割
宿場の役割としては幕府公用の荷物や書状をリレー式に運ぶための人馬を交代する人馬継立(じんばつぎたて)と継飛脚(つぎびきゃく)業務、もう一つは旅人への宿泊・休憩所の提供がありました。
人馬継立のために宿場では人足100人と馬100頭を用意しなければならず、代わりに年貢の免除やコメの支給などの特典が与えられましたが、それでも負担は大きかったようです。
宿場には人馬継立を行う問屋場(といやば)を中心に、本陣・脇本陣・旅籠などの宿泊施設、幕府からの通達事項を掲げる高札場のほか商店や茶屋などがあり、旅人や商人、情報や物資が集まる市場としての顔もありました。
江戸時代後期には庶民の旅人も増え、宿場を中心に街が形成されていきました。
東海道の重要用語
本陣・脇本陣
江戸時代の宿場に設置された大名や公家・幕府役人専用の高級宿泊施設の事で、江戸と国元を往復する大名行列の休泊に不可欠な存在で、宿場の名主や有力者が経営しました。
本陣は主に大名が宿泊し、脇本陣は本陣の予備施設として、また大名の家臣などが利用し、利用がない時は一般客が宿泊していました。
本陣には「門・玄関」の設置が予定されていましたが、規模や施設は旅籠などよりも格上でした。
旅籠・木札宿(はたご・きふだやど)
江戸時代の宿場町で、一般旅人を対象に朝食と夕食の2食を提供した宿泊施設の事を旅籠、自炊宿の事を木札宿と区別されました。
旅籠はもともと旅行用の馬の飼料(まぐさ)を入れる籠の事を言いましたが、次第に食事付きの宿屋の事を言うようになりました。大名など有力者が泊まる本陣・脇本陣と異なり、庶民や武士が主に利用しました。現在でも歴史ある温泉宿などで「旅籠」の名称が看板に使われるなど、近現代の旅館の原型となりました。
問屋場(といやば)
幕府公用の人馬継立の業務や、書状などを運ぶ飛脚の手配を行なっていた管理事務所の事。宿場の中心にあることが多く、宿場の最高責任者である「問屋」が執務しており、事務手続きや補佐係、帳簿付けを行う役人が詰めていました。宿場には必須の期間で、東海道などの主要街道では必ず設置されていました。場所は本陣の近くに位置する事が多かったようです。
類語には駅停(えきてい・宿駅の施設)、伝馬所(てんましょ・馬を管理する場所)、馬締(うまじま・馬を管理する場所)があります。
人馬継立(じんばつぎたて)
幕府の公用、大名、公家などのために、人足(にんそく)や馬を用意し、次の宿場まで送り出す事。
継飛脚(つぎびきゃく)
江戸時代に幕府公用の書状や品物を運ぶため、各宿場に人馬を常備し、宿場から宿場へリレー方式で昼夜を問わず運んだ高速の通信・輸送制度のことです。通常2人1組で行われました。江戸と京都・大阪間を最短約2日半から3日程度で結び、関所の夜間通行や増水時の渡河などの特権が与えられた最優先の幕府便でした。
飛脚
手紙や文書、軽い荷物を交代で走って運ぶ仕事をする人。江戸から京まで最速3日という記録もある。当初は公務に限られていたが、その後民営の飛脚問屋なども登場しました。
陣屋(じんや)
江戸時代に城を持たない主に1万~3万石の小大名(陣屋大名)や、幕府直轄領(天領)の代官所、郡代書として旗本、幕府の代官が、領地の統治や年貢徴収や裁判などの行政業務を行うために構えた屋敷・役所の事です。
堅固な天守や石垣は持たず、門、蔵、居館などで構成され、陣屋の周辺には城下町に準ずる小規模な市街地(陣屋町)が形成されました。陣屋は中世の頃には軍兵の駐屯する軍営を指しましたが、江戸時代に地方領主の居館・役所を指す用語となりました。
見附(みつけ)
江戸時代、城の城門や宿場の入り口に設置された見張り番所(番兵を置いた場所)の事を言います。宿場の出入り口の江戸側(江戸方)と京都側(上方)にひとつずつ設置され、宿場町の範囲を示す役割があります。見附には門戸が立つ木戸や棒鼻が設置されていました。
番所
交通の要衝や湊、造船所などに置かれた監視所で、通行人や荷物の検査や徴税を行なった、各地の城門や宿場、木戸などに置かれることもあった
高札場(こうさつば)
幕府や領主が決めた法度(法律・禁止事項)や掟書(決まり)が木の札(高札)に墨書きされていた、現在の掲示板の役割を果たしていました。宿場や追分、渡船場などの人が多く集まる場所に建てられ、全国にある「辻の札」の地名はその名残です。
別名として「札場(ふだ)」や「制札場(せいさつば)」とも呼ばれました。
立場(たてば)
東海道の宿場と宿場の間に設けられた旅人や駕籠かきのための休憩所の事で、杖を立てて休んだことが名の由来とされています。茶屋が並んで土地の名物などを提供し、宿場間の長い場所や難所に設置されました。
間の宿
宿場間が長かったり難所を通る場合などに、自然にできた旅人のための休憩の場の事です。非公式の宿場なので、宿泊は禁じられていました。間の宿の小規模なものが立場(たてば)となります。
一里塚
一里(約4km)ごとに土を盛って樹木を植えた塚で、旅人の旅程や馬や籠の料金の目安となり、旅人が一休みする場としても利用されました。
道標(どうひょう)
街道の追分や分岐点に立つ行き先や行程を示した道しるべで、ほとんどが庶民や商人からの寄贈によるもので、最初は木材が多かったですが、次第に自然石や切り石の道標になりました。
その他の東海道豆知識
道幅
基準は約10.8m。幕府の指示により小石を取り除くなどの整備がされていました。
松並木や杉並木が多い理由
旅人を日差しや雨風から守る目的で、海沿いには松、山には杉と環境に適した樹木が幕府の命令で植えられていました。雪でも道に迷わないよう、道標の役割もありました。
常夜灯
旅人の安全や道標として建てられ、街灯の役割も果たしました。秋葉権現を信仰する組織の秋葉講が設置した秋葉常夜灯は、秋葉講が多かった証拠でもあります。
石仏や道祖神
邪悪なものが入らないように町村の入り口に祀られたり、旅人の無事を祈って街道に置かれました。決まった形はなく、神々の姿も自由に彫られたものが多いです。
寺社が多い理由
人々が集まるところに信仰が生まれた結果、街道沿いに多くの寺社が建てられました。寺社前には店が並び、参詣客の盛場ともなりました。また広い境内を利用して有事の際に街を守る機能もあった。
掃除番
掃除丁場と呼ばれる持ち場が割り当てられ、街道沿いに住む村人が交代で掃除していました。海外の要人も通行したため、東海道の掃除は幕府の威信をかけた重要な仕事でした。
宿場にあったお店
旅人が一休みする茶屋のほか、旅に必要な草履・手拭いなどを補充する雑貨屋や土産屋などが軒を連ねたほか、宿場周辺で暮らす人のための食料品や日用品を売る店もあった
茶屋
土地の食材を使った食事や饅頭などの菓子や果物類、携帯用の食べ物などバラエティに富んでいました。
川越
江戸幕府は江戸の防衛や架橋技術がないという理由により、大きな川に橋をかけることがありませんでした。旅人が橋のない川を渡るには、渡し賃を払って船で渡るか、川越人足に渡してもらうしかありませんでした。川の水かさが増し、人の脇ほどの高さになると危険なため川留めとなり、旅人は宿に泊まって待機するため、庶民の懐をいためたとされています。
東海道を旅した人
江戸時代中期には参勤交代の大名や武士、寺社参詣を大義名分に、庶民、僧侶、女性たちも旅に出るようになりました。伊勢神宮のお陰参りでは子供だけの団体もありました。
旅の手引書
旅ブームが起こった江戸時代は手引書が多く出版され、旅初心者に人気が高かったのは「旅行用人集(りょこうようじんしゅう)」で著者の経験から61ヵ条の旅の心得を伝授するハウツー本でした。
東海道を踏破するのにどれくらいの費用
一般的な旅籠にとまり、昼食やお茶代、草鞋の履き替えや髪結なども換算すると1日300文、江戸時代から京まで15日として往復で2両、現在の26万円前後
乗り物
庶民は徒歩。女性や老人は乗り物を使うことも。カゴを担ぐ駕籠かきや馬を引く馬子(まご)が観光案内することもあり、旅の楽しみのひとつでした。
東海道を旅する人は1日どれくらい歩いたか?
成人男性で1日8〜10里(32〜40km)早朝に出発して、8〜10時間ほど歩き、日没前に宿に入るのが一般的だった。暗くなるとおいはぎの心配もあった
往来手形がないと
不備や水漏れがあっても通してもらえず、時雨分の村まで戻って再発行、往来手形を紛失した武士が、入水自殺を測ったという記録もあるほど厳しかった
どれくらいの日数をかけて移動したか?
シーボルト 14泊15日 勝海舟 早駕籠で6泊7日 徳川家茂 20泊21日 吉田松陰 16泊17日
持ち物
矢立(やたて・筆記用具)、カミソリ(ひげそり)、大小財布、針・系、薬、耳かき、髪結道具(ヘアケア用品)、きり、合羽(かっぱ、折り畳み傘、レインコート)、提灯(懐中電灯)、麻綱(ロープ、ひも)、鼻紙(ティッシュ)、ろうそく(ペンライト)、飯入れ(弁当箱)、大小風呂敷(エコバック)、火打ち道具(マッチ、ライター)、菅笠(帽子)、しり織ござ(レジャーシート)、手拭い(タオル)、巾着(バッグ)、懐中鏡(コンパクトミラー)、扇子・うちわ、そろばん(電卓)、印判(印影)、心覚手帳(日記、手帳)、道中記(ガイドブック)、往来手形・通行手形(パスポート9
三重県内東海道の宿場町
三重県内には東海道五十三次のうち、7つの宿場(42~48番目)が存在しました。これは静岡県に次いで2番目に多い数です。
海沿いの城下町から険しい山越え拠点まで、バリエーションに富んだ宿場が三重県には存在していました。
42番目 桑名宿・「七里の渡し」で知られる伊勢国の玄関口
特徴: 名古屋(熱田宿)から海路「七里の渡し」を経て入る、伊勢国の東の入口です。
見どころ: 桑名城跡(九華公園)や、海上の安全を祈願した「大鳥居」があります。また、焼きハマグリが名物として当時から非常に有名でした。
(本陣2軒、脇本陣4軒)
43番目 四日市宿・市が立った商業の要衝
特徴: その名の通り「四」のつく日に市が開かれたことで発展しました。当時は「十里の渡し」の終着点でもあり、活気あふれる商業都市でした。
見どころ: 三重川(現・三滝川)にかかる橋や、名物の「なが餅」は現在も愛されています。
(本陣2軒、脇本陣1軒)
44番目 石薬師宿・石薬師寺の門前町として栄えた静かな宿場
特徴: 宿場の規模は比較的小さいですが、弘法大師ゆかりの「石薬師寺」の門前町として親しまれました。
見どころ: 歌人・佐佐木信綱の生家があり、資料館も併設されています。
(本陣3軒、脇本陣0軒)
45番目 庄野宿・広重の最高傑作「白雨」の舞台
特徴: 歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次』の中で、突然の夕立の中を坂道で急ぐ人々を描いた「白雨(はくう)」のモデルとして世界的に有名です。
見どころ: 庄野宿資料館があり、当時の宿場の様子を今に伝えています。
(本陣1軒、脇本陣1軒)
46番目 亀山宿・険しい崖にそびえる城下町
特徴: 亀山城を中心とした城下町と宿場町の両方の顔を持ちます。地形の起伏が激しく、坂が多いのが特徴です。
見どころ: 三重県内で唯一現存する城郭建造物である「多門櫓(たもんやぐら)」がシンボルです。
(本陣1軒、脇本陣1軒)
47番目 関宿・江戸時代の面影が最も残る、日本屈指の保存地区
特徴: 東海道で唯一、往時の町並みがほぼ完璧に保存されている「重要伝統的建造物群保存地区」です。電柱が地中化されるなど、景観へのこだわりが徹底しています。
見どころ: 約1.8kmにわたる町並み、日本最古級の銘菓「関の戸」など。
(本陣2軒、脇本陣2軒)
48番目 坂下宿・難所・鈴鹿峠を控えた登り口の宿
特徴: 箱根峠に次ぐ難所と言われた「鈴鹿峠」の麓に位置し、峠越えの前後の旅人で賑わいました。
見どころ: 現在は静かな集落となっていますが、周辺には「岩屋観音」や鈴鹿峠の険しさを偲ばせる石碑が点在しています。
(本陣3軒、脇本陣1軒)




